青空の下、古民家と猫たち

古民家で暮らす老夫婦と、黒猫と白猫たちの穏やかな日常。薪の火を囲みながら、自然の中でゆっくりとした時間を楽しむ毎日。

襖を張り替え、蜘蛛の巣を眺め、「富」について考えた日

今日は襖紙の張り替え。

張り替える前の状態

古い襖紙を剥がして新しい紙を合わせて、のりで貼って整えて。

古民家というのは、ひとつ直すと急に周囲の古さが目立ち始めて、「はい、次はここね」

と家のほうから仕事を差し出してくる。終わりがない。

でも、昨日まで見慣れていた襖がきれいになると部屋の空気まで少し変わったように見える。

こういう小さな変化が楽しくて、結局また次の場所をいじり始めるのだと思う。ちなみに出来上がりの写真を撮り忘れた。でも、これからあと12枚襖紙を貼る予定なのでぼちぼちと写真をアップしよう。

雨上がりの庭には、芸術作品ができていた

誰がデザイン考えたんでしょうねぇ

雨が上がって庭へ出ると、蜘蛛の巣がきれいだった。

水滴をまとった糸が光を拾って、いつもの庭に突然 精巧なレースが浮かび上がっている。

誰に見せるわけでもなく誰からお金をもらうわけでもなく、蜘蛛が一晩で作った作品。

しかも雨が降ったからこそ、そこにあることに気づく。

古民家で暮らしていると、こういうものによく足を止められる。

豪華でも珍しくもない。

だけど、「おお~~~、きれいだねぇ」と、しばらく眺めてしまう。

もしかすると、こういう時間も私にとっての「富」なのかもしれない。

我が家に新通貨が誕生した

昨夜、じいさまと「お金」と「豊かさ」について話していた。

その途中で、ふと気づいた。

うちはお墓が大きくて、墓石が8基ある。ついでになぜか記念碑(戦没者の方への)

さらに自宅の仏壇まで合わせると、仏花を用意する場所はざっくり10基分。

お盆、お彼岸、お正月。

私は昔から、仏花とローソクとお線香にはできればお金を惜しみたくない。

お墓へ行ったら、花畑みたいにして帰りたい。

そんな話をしていて年間の花代を考えたら、妙なことに気づいた。

ChatGPTの年間費用と仏花の年間費用が、だいたい同じなのである。

そこでじいさまが言った。「AI一匹分!」

私はこの言葉が大変気に入った。

白猫屋、独自通貨を発行する

我が家には以前から、小額決済用の架空通貨がある。

1リンドール=だいたい180円。

こちらは変動相場制である。

そして今回、新たに高額通貨が誕生した。

1ChatGPT(チャッピー)=約3,500円。

つまり、

1チャッピー≒ 20リンドール。

急に豪勢である。

今後は、「これ、3,500円もするの?」

ではなく、「えっ、1チャッピーもするの?」と言えばよい。

そして12チャッピーで約42,000円。

これが、チャッピー一匹の年間飼育費。

猫でも犬でもないのに、とうとうAIまで「飼育費」で家計簿に登場するようになった。

私にとっての「富」は、花と会話らしい

ここまで話して、ふと思った。

私は何にお金を使えると嬉しいのだろう。

豪華なものをたくさん所有したいわけではない。

でも、ご先祖様には花をたくさん供えたい。

ローソクやお線香を「もったいない」と思わず使いたい。

そして夜になったら、チャッピーとくだらない話から人生の話までしてゲラゲラ笑いたい。

そう考えると、私にとっての「富」は花と会話なのかもしれない。

なんだか、ずいぶん安上がりなような、それでいて年間で計算すると意外と高いような。でも、そのためのお金なら稼ぐのも楽しい。

「仏様のため、AIのためにメルカリで頑張って稼ぐね」

と言ったら、これこそ私にとっての稼ぐ喜びなんだと気づいた。

欲しくもないものを買うためではなく、自分が大切だと思うものを惜しまず大切にするために稼ぐ。それなら楽しい。

メルカリで何か売れたら、「よし、今日は1.5チャッピー分稼いだ!」

と思えばいい。

小さいものなら、「3リンドール確保!」である。

円より楽しい。

白猫印の宅急便って誰か作らないかしら?

今日も白猫屋は、たいしたことのない一日

襖紙を張り替えた。雨が降った。蜘蛛が巣を張った。

雨上がりの蜘蛛の巣が、びっくりするほど美しかった。

そして夜には、花と会話があれば私はけっこう豊かなのだと気づいた。

こうして書いてみると、今日も別に大事件は起きていない。

でも最近思う。

人生の「いい日」って、案外こういう日なのかもしれない。

家を少し直して庭で立ち止まって、きれいなものを見つけて大好きな人たちや、ご先祖様や、猫たちがいて 夜になったらくだらない話をして笑う。

つまんないけれど、ちょっとだけほっこりしている日常。

目標、1ナルミ。

花と会話を維持するため、白猫屋、本日も地味に稼ぎます。

……まずはメルカリに何を出そうかね

黒猫ラッキーだよ

縦ルーバーを付けた日

はなれの玄関。

ビフォー:絵画の下の黒ずみはじいさまの手あか

ずっと気になっていた壁に、今日は縦ルーバーを取り付けました。

最初はこんな感じ。

白い壁に小さな絵。古い照明。昭和の家らしい玄関です。

これはこれで嫌いじゃない。でも、なんとなく壁が汚い(じいさまが白い壁をみると汚したくなる?)。なんとなく間が抜けている。

「ここに縦ルーバーを入れたらどうだろう?」

そう思って、やってみました。

そして完成。

アフター:なんということでしょう~~♪じいさまの手形が見えない

……おお。

思っていた以上に変わった。

壁だった場所に縦の線が入っただけなのに、玄関全体が締まって見える。

もともとあった照明も、絵も、そのまま。

高価なものに取り替えたわけではありません。ただ背景が変わっただけ。

それなのに、絵まで急に「ここに飾るために選びました」みたいな顔をしています。

君、さっきまでそんなに立派だったっけ?

古い家は面白い。

全部を新しくしてしまわなくても、ほんの少し手を加えるだけで昔からそこにあったものが急に生き返ることがあります。

じいさまはピーチプーアール茶、私はブラックコーヒー

作業が終わったら、じいさまとお茶。

いつものテーブルに、いつものマグカップを二つ。向こうには、これまた古い建具。

特別なことは何にもありません。自分たちの家で、二人でコーヒーを飲んだだけ。

でも、こういう時間が私は好きです。

呼ぶと振り向く

ん?

 

縁側を見ると、白猫たち。日向に伸びている子。庭にいる子。
部屋の中から外を眺めている子。

こちらも本日、仕事をする気はまったくないようです。

白猫屋、相変わらずの開店休業。

人間は縦ルーバーを取り付け、猫は日向で転がる。

そして作業が終わった人間は、コーヒーを飲む。

お天道様は偉大なり

うつくしや 野分のあとの とうがらし (与謝蕪村)

白猫屋、本日も少しだけ進化しました。

秋になったら、ニンニク万能たれを仕込む

今年も、この季節がやってきた。

ニンニク万能たれを仕込む季節。

ニンニク万能たれ:ニンニクドレッシングともいう

去年の秋ごろ、畑に植えたニンニク。

冬を越して春になって、6月ごろに収穫した。

収穫したからといって、すぐに万能たれになるわけではない。乾燥小屋へ運び、そこから約3か月。じっくり、しっかり乾燥させる。

そして秋。

ようやく今年のニンニクが、万能たれになる。

ニンニク1キロ、どーん

使うのは、皮をむいたニンニクだけで1キログラム。作る万能たれは、一度に約4リットル。ちょこっと作る、という発想は白猫屋にはない。

どうせ作るなら、一年分どーん。

ニンニクという作物は、畑の栄養をずいぶん持っていく。だから植える場所も考えながら育てる。それでも毎年作るのは、この万能たれが美味しいから。

肉にも合う。魚にも合う。野菜にも合う。豆腐にも合う。これからの季節はおでんにも最高!

甘くて、辛くて、ニンニクのコクがある。

そして不思議なことに、作ったばかりよりも時間が経つほど味がなじんで美味しくなる。だから「万能」。

我が家では本当に、何にでも使う。

可愛い私の黒猫ラッキー

味噌も畑から

この万能たれには、我が家で作った味噌も使う。

味噌は、いつ仕込んでも一度「夏」を越してから、ようやく食べられるようになると教わった。我が家では、大豆が採れるころになると味噌を仕込む。作るのはいつも二種類。

米味噌と麦味噌。

そして、その味噌に使う大豆も畑で育てる。糀も手作り。青唐辛子も、毎年使う銘柄が決まっている。

こうやって書いてみると、ニンニク万能たれ4リットルを作るためにずいぶん前から準備が始まっている。

ニンニクを植える。

大豆を育てる。

青唐辛子を育てる。

糀を作る。

味噌を仕込む。

夏を越す。

ニンニクを収穫する。

三か月乾燥させる。

そしてようやく、秋の万能たれになる。

去年の今頃はいつ見ても眠っていたZZZ

義母さんから教わった味

この万能たれを教えてくれたのは、義母さんだった。

義母さんによれば、この家に代々伝わってきたレシピらしい。

何代前からなのか 最初に誰が作ったのか、私は知らない。

でも義母さんが作っていたものを、今は私が作っている。

レシピというものは、紙に書いて残すだけではない。

「このくらい」「ここまで」「もう少し」

そんなことを隣で見ながら、手が覚えていく。

そして季節が来ると、「そろそろ作ろうか」と思う。

それも、この家に残ってきたものの一つなのだと思う。

じいさまは、焼きおむすび

いろいろな料理に使える万能たれだけれど、じいさまの大好物は、

焼きおむすび。

おむすびを焼いて、万能たれを塗る。

また焼く。香ばしくなったところへ、もう一度。

ニンニクと味噌の香りが立ち上がる。甘い。辛い。香ばしい。

じいさま、ご機嫌。

たぶん本人にとっては、ニンニクをいつ植えたとか大豆をどう育てたとか、糀をどう作ったとか、そんなことはどうでもいい。

焼きおむすびが美味しければ、それでよろしい。

古民家あるある:ある日突然畳から竹がはえる

一瓶の中に、一年が入っている

秋にニンニクを植えて冬を越して春を迎えて、初夏に収穫して夏のあいだ乾燥させて。

秋になったら、4リットルの万能たれを仕込む。

その間には、大豆を育て、糀を作り、味噌も仕込んでいる。

スーパーへ行けば、便利で美味しい調味料はいくらでも売っている。

それでも毎年これを作る。スーパーでは買えない味だから、そして義母さんから教わった味だから。この家でずっと食べてきた味だから。

そして何より、美味しいから。

今年もニンニク1キロ。

万能たれ、4リットル。

これから時間をかけて、ますます美味しくなっていく。

古民家の暮らしでは、調味料一つ作るにも一年がかり。

でも、その一瓶の中には、畑と、季節と、義母さんから受け継いだ時間が、全部入っている。

さて新米もできたことだし、今年も焼きおむすびの季節です。

白猫屋、本日も美味しく継承中です。

人類は、なぜこんなアホなことを始めたのだろう

先日飲み会の際に「文化」について話していた。

カメラを向けると必ず見つめる白猫泡盛

私は子どもの頃から、いわゆる文化的な習い事をいくつかやってきた。

たとえば琉球舞踊。

基本練習で何をするかというと、中腰になって両手を伸ばして扇を持ち舞台の端から端まで歩く。延々と歩く。歩く。まだ歩く。これを2時間。

子ザルだった私としては、「何が楽しくてこんなことをしているんだ?」と思う。

こんな邪念がよぎるとすかさず先生からご指導される。

ピアノだって似たようなものだ。

いきなり素敵な曲を華麗に弾かせてもらえるわけではない。

まず指のウォーミングアップ。

基本練習を1時間やって、それからようやく課題曲。

お茶も三味線も同じ手順を何度も何度も繰り返す。

茶道、香道、柔道、合気道、舞踊、音楽。

分野は違っても、結局やっていることは似ている。

何も考えなくても身体が動くところまで、基本を叩き込む。

そして良い師匠ほど、基本をおろそかにしない。

これは大人になった今なら、ものすごく合理的なのだと分かる。

分かる。分かるのだがアホの子だった私はちょっとアホっぽいなぁ、と思っていた。

そんな話をしていたら、私はフィギュアスケートを思い出した。

あれなんて、サル目線で考えたら相当にすごい。

まず寒い。わざわざ氷の上で下着かと思うほど薄そうな衣装を着る。

さらに靴の裏に細い金属の刃を付ける。音楽を流す。そして、滑る。

さらに、クルクル回ったかと思うと突然ジャンプする。

転ぶ。氷に叩きつけられる。痛いだろうなぁ。青あざできてるだろうなぁ。

ところが立ち上がる。そして、また飛ぶ。何度も何度も飛ぶ。

そのうち、「今のはトリプルアクセルです」などと言い始める。

知らんがな~。

さらに、「これはルッツなので踏み切りが……」などと言う。

サルにはもう分からない。飛べたんだからいいじゃん、とはならないらしい。

足がどうだ。エッジがどうだ。回転がどうだ。踏み切りがどうだ。

人類は氷の上でジャンプするという、生存にはほぼ何の役にも立たない行為をとんでもなく細かく分類してしまった。しかもあのイナバウアーは点数がつかないという。

これがまた世界共通なのである。

日本人だけがやっているのではない。

ヨーロッパでもアメリカでもアジアでも、「今のルッツは!」と真剣に見ている。

すごくない?

これ何だと思いますか?答え:我が家のニンニクドレッシング

そもそも氷の上でクルクル回ったところで、獲物が捕れるわけではない。

木の実も採れない。畑も耕せない。ご飯も炊けない。

サルの生存能力として考えれば、ほぼゼロ。

なのに人間は、それを極めるために何年も費やす。

転んでも転んでも立ち上がる。昨日よりほんの少し高く、ほんの少し速く、ほんの少し美しく。そして、それを見ている人間まで泣く。

私はフィギュアスケートを見るたびに、「最初にこんなアホなことを考えた人、すごいなぁ」と思う。

もちろん実際には、ある日突然一人の人間が、

「よし。今日から氷の上で回転して芸術点を競おう」と思いついたわけではない。

最初は凍った場所を移動するための実用品だったスケートが、長い時間をかけて遊びになり技術になり表現になり競技になった。

誰かが、「こんなこともできるぞ」とやる。

それを見た別の誰かが、「おお~~~~っ!」となる。

そして、「じゃあ私はもうちょっとやってみる」となる。

それを何世代も繰り返した結果、トリプルアクセルだの4回転だのという世界まで来てしまった。人類、どこまで行くつもりなんだ。

そこで友人が言った。

文化というのは、「別にやらなくてもいい。でも、やりたい」というものに、人間がとんでもない時間を投入した結果なのかもしれない、と。

なるほど。

そう考えると、私が子どもの頃、「何のためにこんなことやるんだ?」と思いながらやっていた琉球舞踊や三味線やピアノ等も同じである。

中腰になり扇を持つ腕を伸ばし歩く。舞台の端まで行ってまた戻る。2時間。

サルからすれば、「友達とウルトラマンごっこして遊びたいし、ついでに海で獲物でも採ってきたほうがよくない?」である。しかし、身内に琉球舞踊の師範が数名いたため練習をさぼることも出来なかった笑。

ところが、その「別にやらなくてもいいこと」を何百年も誰かが真剣にやめなかった。

歩き方を伝える人がいた。習う人がいた。違うと言われてやり直す人がいた。

また次の世代に教える人がいた。そうして残ったものを、私たちは今、「文化」と呼んでいる。100歳で大往生した叔母は94歳の時に舞台で力強く美しい琉球舞踊を踊っていた。かっこいいなぁ、と心底感動した。

まだまだ栗の季節

そして面白いのが、そんな生きていく上では最も必要なさそうなものがいつの間にか、「文化的素養」「教養」「お育ち」などという言葉と結びつき、ときには階級を表す物差しにまでなっていることである。

ピアノが弾ける。お茶ができる。舞踊を習っている。美術が分かる。クラシック音楽を聴く。

すると突然、「文化資本がありますね」などと言われる。

サルとしては、なんでやねん。

生きていくのに一番必要なさそうなことを一生懸命やっていたら、いつの間にか高尚なことになっている。

しかもそこへ時々、「どう? この素敵な、わ・た・し」という優越感まで混ざってくる。人類はややこしい。

 

でも、そんな余計なものを全部取っ払って、一番最初まで戻してみると案外単純なのかもしれない。楽しかったんじゃないかな?

滑ったら楽しかった。全集中で踊ったら楽しかった。昨日できなかったことが今日できた。もっとやりたくなった。誰かが真似した。もっと上手な人が現れた。

その人を見て、また誰かが練習した。そして何百年も経った。

文化って、本当はものすごく高尚なところから始まったのではなく、「これ面白い!」から始まったものが多いのではないだろうか。

 

そう考えると、人間という生き物はなかなか素敵だ。

食べるためでもない。

お金のためでもない。

生き残るためでもない。

それでも、「もう一回やりたい」と思う。

氷に叩きつけられても、もう一度ジャンプする。

指が思うように動かなくても、もう一度弾く。

中腰で足がプルプルしても、また舞台の端まで歩く。血豆ができても弦を弾き続ける。

別にやらなくてもいい。だからこそ、やる。

もしかすると文化とは、人類が生存から少しだけ自由になったところに生まれた、壮大な遊びなのかもしれない。

そう思うと、フィギュアスケートも琉球舞踊もなんだか猛烈に愛おしく見えてくる。

人類!よくぞ、こんなアホなことを何百年も真剣に続けてきた。

そして今日も世界のどこかで、「違う。もう一回」と言われながら、同じ動きを延々と練習している人がいる。

 

でも、たぶんその「もう一回」の積み重ねが、いつの日か文化と呼ばれるものになるのだろう。……ということを、おでんをハムハムしながら友人たちと延々しゃべっていた。

これまた、生きていく上では何の役にも立たない。

何が好き?何が楽しい?って質問をして皆でわっはっは~と笑い良く食べお酒を飲んだ。非常に文化的な夜であった。

一番長生きするゲーム(仮)

先日、用事があって東京へ出かけた。

白猫シロは雨の日はここが定位置でぼ~~~っ

せっかく東京まで来たのだから、そのまま帰るのももったいない。

用事終わって夕方から友人たちと、おでん食べ放題のお店で集合。

最初はそんなに大人数ではなかったはずなのに、「今から行くよ~」「近くにいるから寄る」などと途中参加が増えて、

気がつけば15人くらい。テーブルにはおでんとお酒。そして、身体によさそうな料理。

話題は――

年金。
親の介護。
行政のこと。
病気と病院。
旅行。
孫たち。
お墓。などなど・・・

……若い頃の飲み会とは、ずいぶん話題が変わったものである。

でも、これがなかなか面白い。

あとから合流する子は最初に寝ている猫の毛づくろいをするルールらしい?

全員、年寄枠

集まったメンバーは年齢こそ少しずつ違うけれど全員 立派な年寄枠。

長期入院から生還した人もいる。老々介護の真っただ中にいる人もいる。

フレイルが気になり始め、「うちは、どっちが先に逝くかねぇ」なんて話も、普通に出てくる。若い頃なら、なんとなく避けていたかもしれない話。

でも、この年になると案外さらっと話せる。

だって、みんな同じ方向へ進んでいる。順番が分からないだけである。

ひとつの座布団に白猫3匹

じゃあ、ゲームにしちゃう?

そんな話をしているうちに、妙な案が出た。

一人、年間1000円ずつ出す。

そして最後まで生き残った人が、全部もらう。

題して、

「一番長生きするゲーム(案)」

年間1000円なら、たいした負担でもない。

15人なら最初の年は1万5000円。

人数が増えれば、もう少し大きくなる。毎年続けていったらどうなるんだろう。

「私、友達にも声かけてみたい!」「ちょっと待って、制度的にどうなの?」

「そこはちゃんと調べないとね」などと言いながら、話だけはどんどん盛り上がる。

まだ完全に企画段階。

本当にやるなら、お金の扱いやルールなど確認しなければならないこともある。

だから今のところは、一番長生きするゲーム(案)。

見張り番してて、と言ったら本当にココでじっと座っている

会えなくなるのは、やっぱり寂しい

もちろん、誰かが亡くなることを面白がっているわけではない。

長く付き合ってきた人に会えなくなれば寂しい。亡くなれば、もっと悲しい。

その寂しさや悲しさが、ゲームにしたからといって薄まるわけでもない。

でも、「最近どう?」「病院どうだった?」「介護、大変?」「次はどこ旅行する?」

「お墓どうする?」そんなことを、おでんをつつきながら皆で話せる。

そして最後には、「じゃあ誰が一番長生きするか競争しようよ」と笑える。

それはそれで、なかなかいい年の取り方なんじゃないかと思った。

一人で考えれば少し怖くなる老いや病気の話も、眠れない夜の話も15人でお酒を飲みながら話せば、「まあ、とりあえず今日は飲もう」となる。

孫たちが元気に遊んでいるだけでとても嬉しい

とりあえず、今日はおでん

人生の残り時間なんて、誰にも分からない。

元気そうな人が先かもしれないし、長期入院から生還した人が最後まで残るかもしれない。だから、先のことは先のこと。

制度やルールについては、またちゃんと調べよう。友人知人にも声をかけてみよう。

そして今日は、おでんを食べてお酒を飲んで 病院の話をして 孫の話をしてお墓の話までしてみんなで笑った。

湯気のむこうに幸せが見える瞬間だった。

それで十分。

さて、「一番長生きするゲーム(案)」

最後に賞金を受け取るのは、いったい誰でしょう。

できれば決着は、ものすごーく先がいいなぁ。

白猫屋、本日も元気に年寄枠です。

じいさまより先には死ねない

孫たちが、手足口病とインフルエンザになった。

私が寝込んでいるため白猫3匹自宅待機

小さい子どもが二人いると、まあ、いろいろもらってくる。

そして私は娘から風邪をもらった。

若い頃なら、風邪なんて葛根湯飲んで寝れば終わった気がする。

ところが今や一度寝込むと、なかなか元へ戻らない。

熱が下がったから終了、ではない。身体はだるい。体力は落ちる。ちょっと動くと疲れる。

病気そのものより、その後の「通常営業に戻るまで」が長い。

年を取るって、こういうことなのねぇ……と思う。

編みぐるみをもって来てくれた

ばぁさまが倒れると、じいさまに祭りが来る

そして我が家には、もう一人問題児がいる。

70歳になる、じいさまである。結婚して30年以上。

現在の家事スキルは――お米が炊けます。  以上。

 

ばぁさまが元気なときの食卓は、おばぁちゃんのお菜だから野菜を多めに肉や魚もしっかり。

品数も8品ありカロリーも考え、年を取れば筋肉を落としたくないのでタンパク質も意識する。

ところが、ばぁさまが風邪をひいて寝込む。

すると、じいさまの顔がなんとなく明るい。

どうやら彼の中では、「妻が病気=何を食べてもいいチートデー」に変換されるらしい。

いそいそと買い物へ出かけ、自分のためにお弁当とビールを買って帰ってくる。

選んでくるものが、また分かりやすい。

衣がしっかり厚くて、油をたっぷり吸った天ぷら。揚げ物。ポテチ。炭水化物。ビール。野菜、ほぼ行方不明。

「今日は好きなもの食べていいんだ♪」とは言わない。

言わないけれど、背中が言っている。

蒸かした栗5㎏

ところで、ばぁさまのご飯は?

ここで問題です。

寝込んでいる妻の分の食事はどうするのでしょう。

答え。買ってきません。

本人いわく、「自分のことは自分でできるから、心配しないで」

……。

いや。

その「自分」の中に、寝込んでいる妻は入っていないのか。

30年以上一緒に暮らしているが、どうやら我が家の「自分のことは自分で」の解釈には、かなり幅があるらしい。

そして生活時計が壊れる

ばぁさまという生活管理システムが停止すると、じいさまは自由になる。

食事時間も自由。

パソコンを見ながら、好きな時間に好きなものを好きなだけ。

夜更かし。昼寝。また夜更かし。当然のように昼夜逆転。

数日後には、じいさまだけ別の国の時差で暮らしている。

ご飯を食べられない私にプレゼントで、蝉・かまきり・編みぐるみ笑

さらに洗濯を任せれば、泥んこのズボンもそのまま洗濯機へ。

ポケットの確認?そんな高度な技術は搭載されていない。

ティッシュが入ったまま、

グルグルグルグル。

洗濯終了。蓋を開ける。世界は白い。

 

白猫より心配なもの

私は時々、自分が先に死んだらどうなるんだろうと考える。

白猫が三匹いる。この子たちを残してはいけない。ちゃんと最後まで面倒を見なくちゃ。そう思っていた。

ところが最近、風邪で寝込みながら気づいた。

白猫より心配なのが一匹いる。

70歳。175センチ。

お米は炊けます。今回ふりかけ5袋買ってきた。

妻が寝込むとチートデーが始まり、天ぷら弁当とビールを買い、野菜が消え、昼夜が逆転しティッシュ入りのズボンを洗濯機で回す。

猫なら、お腹がすけばニャーと鳴く。

じいさまは、「大丈夫。自分のことは自分でできる」と言う。

そっちのほうが怖い。

だから、やっぱり白猫三匹をちゃんと見送って。じいさまにも、できるだけ元気でいてもらって 私自身も、筋肉と体力を落とさないようにして。

できれば最後まで、みんなの暮らしを見届けたい。

夫婦の愛とか、老後の絆とか。そういう綺麗な言葉も、もちろんある。

でも我が家の場合、それ以前にじいさまより先には死ねない。

 

白猫屋、本日も生存責任重大です。

雨の日は、栗を30キロ蒸かす

朝から、小雨。

庭の栗は、雨なんぞ知ったことかと今日もどっさり。

今年は大豊作

拾って、拾って、拾って――。

今年の白猫屋は、どうやら栗に占領される秋らしい。

栗30キロ、カマドへ

さて、この大量の栗をどうするか。

一鍋ずつ台所で茹でていたのでは、いつまでたっても終わらない。

こんなときこそ、古民家のカマドの出番である。

大きな蒸し器を三段重ね。本日の栗、約30キログラム。

まだ、拾い終わらないけれどとりあえず蒸かす。まとめて一気に蒸かす。

火を焚く。

薪がパチパチと燃えて、大きな釜から湯気が立つ。

火がはぜる音・薪の香りが好き

雨で湿った庭に、煙がゆっくり流れていく。

こういう景色を見ると、「古民家って素敵ねぇ」と思う。

ただし実際にやっていることは、栗30キロの大量処理である。

風情と家事は、案外となり合わせなのだ。

白猫たちは雨宿り

小雨が降り続いているので、白猫たちは外へ出ない。

縁側から庭を眺めて、「今日はやめとこうかね」とでも言いたそうな顔をしている。

人間は雨の中、栗を拾って火を焚いているというのに、猫という生き物は賢い。

ところが一匹だけ、雨なんぞ関係なく楽しそうなのが白猫さくら。

狩りができるのはこの白猫さくらだけ

畳の上で、ひとりゴロゴロ。

お気に入りの編みぐるみを相手に、転がる。蹴る。追いかける。

また転がる。

外では栗30キロ。

中では白猫一匹。

双方とも、ころころしている。

猫ちゃん用おもちゃで一番人気は段ボール

そして今日も、シャインマスカット

栗仕事が一段落したら、お楽しみ。今日もシャインマスカット。

大粒で、皮はパリッ。

口に入れると、甘い果汁と香りがいっぱいに広がる。

日本に生まれて本当に幸せ

庭には栗。

カマドには薪の火。

縁側には白猫。

外は小雨。

そして食卓には、大粒のシャインマスカット。

こうして並べてみると、ずいぶん優雅な秋の日に聞こえる。

でも今日一番たくさん目にしたものは、

栗。

とにかく栗。

拾っても栗。

洗っても栗。

蒸しても栗。

拾い終わらなかった栗に思いをはせるけれど

明日の朝、庭へ出れば――

たぶん、また栗。

白猫屋の秋は、まだまだ続きます。